キューピッドには羽がある

私には好きな人がいる。
優しくて強くてかっこ良くて、笑顔が眩しい、まるで青空みたいな人だ。
三年前、まだ小さかった私がツチムシに出くわして泣いていた時、ヒーローみたいに現れて私を助けてくれた。
ここ人間界のヒーローといえば自由人だけれど、私にとってのヒーローはあの日からずっと彼のまま。

二月。バレンタインはもうすぐだ。
好きな人に告白するにはうってつけの日。
私も彼にチョコレートを渡そうと思わないでもなかった。
ううん、本音を言えば彼に出会って以来ずっと、バレンタインが来るたびに告白したいと思った。
でも私みたいな平凡な子に、彼はあまりに眩しすぎる。
優しくて強くてかっこいい、そして料理も上手いと評判の、鳥人界の英雄。

「はあ~、料理上手になりたい……」
せめて、せめて私が料理上手だったら。
そうしたら、平凡な私にも彼の胃袋……もとい、心を掴むチャンスがあったかもしれないのに。
はあ、とため息をついて膝を抱えると、のんびりとした声が頭上から掛けられた。
「よ、~。そんながっくりしてどうしたんだ?」
小さな翼をぱたぱたと羽ばたかせながらヒーローが私の顔を覗き込んでいた。
「あ。ヒーロー……」
ヒーローは自由人の子だ。
森で木の実を取っている時に知り合った女の子、ミイちゃんの、何を隠そう旦那様である。
二人は私より若い、というか幼いけれど実に仲睦まじい夫婦で、片思いも三年目に突入した私はときどき二人が羨ましくなってしまう。
ちなみに彼のお父さんは人間界の英雄である自由人パーパ。
私が大好きな、鳥人バードとは親友だそう。
だから私の片思いのことは絶対に絶対に秘密で、これはミイちゃんにも言っていない。
ヒーローはいい子だけれど、何と言っても乙女心にはてんで理解がないからきっとお父さんに言ってしまう。
「えっとね。料理が上手になりたいなって……」
は料理が下手くそなのか?」
真っ直ぐな眼差しが弱った心に刺さる。
「下手くそ……ではない……と思うんだけど上手ではない、かな……」
私だって何もせず過ごしてきたわけではないから、それなりのことは出来る。
目玉焼きとか、カレーとか、オムレツとか。ハンバーグとか。
だから特別下手くそ、ではない、と信じているけれど――
私がまた難しい顔をして黙り込んだせいか、ヒーローはぽむぽむと小さな手で私の肩を叩いた。
「ヒーローの友達に料理が上手いヤツがいる! だから教えて貰えばいいぞー!」
「――ほんと!?」

「えーっと、ちゃんね! よろしく!」
「よっ……よろしくおねがいします……」
七世界広しと言えども。
「俺は鳥人バード。ま、気軽に呼んでくれ」
英雄を気軽に料理講師に呼べるのはヒーローだけだと思う――!
ちゃんはヒーローとミイちゃんの友達なんだってな。昨日ミイちゃんにもよろしく言われたぜ」
に変な事したら承知しませんわヨ! ってさ、と声色を使って笑う彼は今日も死ぬほどかっこいい。
さっきから心臓がすごい速さでバクバクしていてまっすぐに目を見ることも叶わない。
こんな調子で料理教室なんて絶対無理だ。
でも目の前の彼に呆れられるのも絶対に嫌だ。
何とか、何とかちゃんとしなきゃ。



「料理教室だァ?」
俺は眉を吊り上げた。
諸事情で里を出ちゃいるが、これでも俺は鳥人界のナンバーワン、あのバード様だ。
「何で俺様がちみっこに料理教えなきゃなんねーのヨ」
ごめんだね、と言って舌を出すと後ろから殺気を感じた。
はっと振り返った先には笑顔で出刃を握りしめるミイちゃんの姿。
はちみっこじゃありませんわ! ミイとヒーローの大事なお友達ですッ!」
「まあまあ、一回ぐらいいいだろバード。ヒーローの頼みだし」
こちらは殺気こそないが、にこやかに鼻血を垂らしている俺の親友。
「ったく、親馬鹿だねえ」
ミイちゃんからはさりげなく距離を取りつつ、俺は肩を竦めた。
「今回だけだぞ」
「わーい!」
何だかんだ、ヒーローに甘いのは俺も一緒だ。

約束の日。
控えめなノックの音にドアを開けると、小柄な人間の子が立っていた。
年の頃は言われた通りヒーローより幾つか上、キリーやサクラぐらいか。
俺を見るなり元々大きな目が目いっぱい開かれて丸くなる。
何で驚かれてんだ、と思いつつ、その表情すら可愛いと思ってしまった。

「えっと、ちゃんね! よろしく!」
「よっ……よろしくおねがいします……」
明るい声で話しかけては見たが、ちゃんは俯いたままだ。ま、緊張してるんだろうな。
「俺は鳥人バード。ま、気軽に呼んでくれ」
とは言え、自分のスカートをぎゅっと握りしめている彼女を見ていると俺にまで緊張が移って来る。
俺はそれを悟られないように努めて軽い調子で背を向けた。
「とりあえず座ってなよ。お茶でも淹れてくるからさ」

台所で茶を淹れながらそっとため息をつく。
この時期に料理が勉強したいだなんて、絶対彼氏のためだろう。
羨ましい。
まったくこの世は不公平だ。
「お待たせ」
彼女の前にティーカップを置いてから改めて向かいに腰を下ろす。
ちゃんはちょっとだけ頭を下げてアリガトウゴザイマス、と言った。
「敬語じゃなくていーよ」
「え……」
「疲れちゃうだろ」
「……はい」
照れたように笑うのが可愛らしい。
目はまだ合っていないが、少しは気を許して貰えただろうか。
「んで。料理上手くなりたいんだって?」
「はい――じゃなくて、うん」
よしよし。
「んー。そんな一朝一夕にはいかねえけど、何か得意料理でも出来たら自信がつくんじゃないか」
そう言うと、彼女は納得顔でこくこくと頷いた。
「だからさ、とりあえずちゃんが作ってみたいもの作ろうぜ」



優しい。バードさんは三年前と変わらず優しい。
紅茶のいい香りに少しだけ落ち着いていた心臓がまた騒ぎ始めてしまった。
ちゃんと答えなきゃいけないのに。
折角のチャンスだからバードさんが好きなものを作れるようになりたい。
けれど、バードさんが好きなものって何? 分からない。
ああ、と内心で頭を抱えているとバードさんがふっと笑った。
「思いつかないんなら、この時期だしガトーショコラでも作るか」
「ガトーショコラ……!」
バレンタインが近いから提案してくれたのかもしれない。
好きな人とガトーショコラが作れるなんて!
「どう? 美味いし可愛いし、簡単だぜ」
「うん!」
笑った眼差しと目が合って、はっとする。
ああ、やっぱり私、この人が大好きだ。



作るものも決まったところで台所に並んで立つ。
隣に立つと身長差がいっそう感じられて、庇護欲が擽られた。
ちゃんは持参のエプロンをつけてやる気満々といった表情で手を洗っている。
やばい。可愛い。
俺は緩んだ顔を見られないように冷蔵庫に顔を突っ込んだ。
「えーと、材料は、と」
生クリームにバター、卵、グラニュー糖に薄力粉。
それと主役のチョコレート、ココアパウダー。
自慢じゃあないがこれぐらいのものは家にある。

「そうそう。早めに泡立てて。黄身が固まるとマズイから」
先ずは砂糖と卵黄を泡立てるところから。
「うん……!」
ちゃんは微笑ましくも一生懸命に手を動かしているが、料理教室と言うなら「それなり」以上を目指して貰わないことには俺の面子に関わる。
「ちょい貸して」



大きな手が私の手からガラスボウルを取り上げる。
「傾けてこう……あとホイッパーは少し持ち上げ気味で。そうすると空気が入って早く泡立つから」
指は長くて骨張っているのに、でも綺麗で、バードさんの手にかかると卵黄が見る見る白くなる。
な? と顔を覗き込まれて、慌てて頷いた。
「じゃ、交代」
「はい……!」
見様見真似でホイッパーを動かすと、先ほどより随分効率良く混ぜられた。
「いいじゃんいいじゃん。さっきよりやりやすいだろ?」
「うん!」
褒められてくすぐったい気持ちで笑うと、バードさんの切れ長の黒い瞳が細められた。



「よーし。次はバターとチョコレートを溶かすぞ。温度調節が難しいから今日は温度計見ながらやろう」
テンパリングの仕方、粉の振るい方、生地の混ぜ方。
ちょっとしたコツを教えるとちゃんはすぐにそれを飲み込む。
一度で上手く出来ないことや疑問に思ったことは俺に質問をして、努力家の出来のいい生徒だった。

形に流し入れた生地はいよいよオーブンへ。
その焼き上がりを待つ間、俺たちはもう一度テーブルでお茶を楽しんだ。
「筋がいいから、全然問題なさそうだな。今日のもきっと美味いぜ」
そう言って笑うと、ちゃんは照れたように笑った。
最初よりは大分打ち解けてくれて、距離も結構縮まったと思う。
「ありがとう。でも今日のは、バードさんのおかげです」
胸がきゅんとするのを感じて目を逸らす。
部屋の中はオーブンから漂う甘いいい香りでいっぱいだ。
「――そろそろいいか」
慎重に引き出したガトーショコラは程よく膨らんで、俺たちの期待も俄然高まる。
そろそろと竹串を刺すちゃんの目がきらきらと輝いていた。
「串を抜いて生地がついてこなかったら、中まで火が通ってるってコト」
「……大丈夫みたい」
「じゃ、完成!」
わあ、と声を上げてからちゃんは感極まったように息をついた。
「美味しそうに出来た……」
彼女がこんなに可愛いのはきっと恋をしてるからなんだろう。
ほんの少しだけ意地悪な気持ちで俺は唇を吊り上げた。
「きっと彼氏も喜ぶぜ」
その言葉に、ちゃんは大きな目を数回瞬いた。
しまった、と思っても後の祭りだ。
彼女は慌てたように首を振った。
さらさらとした髪が彼女の動きに合わせて揺れる。
「――そんなんじゃ……!」
「ごめん、変な事言った。冗談だよ」
ああ、せめてこの子に嫌われるのはゴメンだ。
俺はちゃんに背を向けて、棚からワックスペーパーを取り出した。
羽根の模様がついた可愛いやつだ。
たまには人にやることもあるからな。
本当なら師匠として出来上がりを一緒に味見して、総評まで、なんて考えてたがどんな顔で彼女に接していいかわからない。
「ほら。少し冷ましたらこれに包んでさ。持って帰りなよ」
そう言うと、ちゃんは困ったように眉を下げて頷いた。



彼氏にあげるって。
そう思われてるんだなあと思ったら慌ててしまった。
ただの冗談をそんなムキになって否定したってしょうがない。
バードさんを困らせるだけだ。
簡単なラッピングの仕方まで教えてくれた彼の手はやっぱり器用で、それで優しかった。
「リボンの端っこだけ揃えて……っと。そうそう。これで、出来上がり」
「出来た……」
綺麗に出来た包みを見てぽつりと呟くと、バードさんは少しだけ表情を緩めた。
「食ったら後で感想教えてよ。いつでもいいからさ」
「うん。本当にありがとう」
「えーっと……家まで送るか」
「だっ……大丈夫。すぐ近くだし、まだ明るいから」
「ほんとに?」
「うん」
ああ。駄目だ、こんな状態のままお別れしたくない。
私はきゅっと手を握りしめる。
「バードさん」
「ん?」
「これ……あげたい人がいて、作ったの」
困ったみたいなバードさんの顔を見ていられなくて俯く。
「良かったら……貰ってください。チョコレート……」



は、と気の抜けた声が口から漏れた。
あげたい人がいて。
だから料理頑張って。
で、貰ってくださいって……俺に?
チョコレートを?
「なんで――俺に?」
我ながらだせえ切り返しで頭に来る。
しょうがねえだろ、わかんねえんだから!
ちゃんは下を向いたまま、耳の先まで真っ赤にしている。
そんな顔しないでくれ。
だって、それじゃ、まるで
「……っ……ずっと好きでした…………」
「…………え?」



「悪い、全然覚えてなかった」
「すっごい前のことだし、それはしょうがないからいいの」
俺たちの前にはガトーショコラと、気分を切り替えるために淹れ直したコーヒー。
二人してしどろもどろになりながら、俺たちは状況を整理した。
会うのは今日が初めてじゃないってこと。
ちゃんは元々、俺の、この俺のために料理が勉強したかったってこと。
それを知らずにヒーローが引き合わせてくれたんだってから、全く頭が上がらない。
「あのさ……ちゃんが、告白してくれたからってわけじゃねーけど」
俺はなるべく心を落ち着けてから彼女を真っすぐに見た。
その頬はまだほんのりと赤い。
「今日、一緒に料理してすげー楽しかった。また……デート、してくんないかな」
今度は外で、と付け加えると、ちゃんは照れくさそうに、けれどそれよりずっと嬉しそうに笑った。
「うん」
「良かった!」
思わずテーブルの上で彼女の手を握ると、驚いたようにちゃんの目が丸くなる。
「あ、ゴメン」
ぱっと、二人で手を離して、膝の上に揃えて。
何をやってんだ俺たちは。
「……あーっと……ガトーショコラ、食おっか」
「うん!」

本番にはほんのちょっとだけ早いけれど。
二人にとってはきっと、一生忘れられないバレンタインだ。

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