青色のヒヤシンス



「おや。こんな時間まで夜更かしとは」
悪いメイドもいたものだ、と言いながら青年は軽やかな足取りで少女へ歩み寄る。
月明りを受けた彼の面は優美に笑んでおり、少女には自分がいっそう惨めに感じられた。
しかし主家の嫡嗣である青年の心をたかだか一使用人の自分が煩わせるわけにはいかない。
濡れた頬を手のひらで拭い、少女は懸命に平素の声を出す。
「おかえりなさいませ、クジャク様」
ああ、と言った彼の切れ長の瞳が細くなる。
何もかも見透かされているようで少女は視線を床へ落とした。
「御用が特にございませんようでしたら、私はこれで」
軽く膝を曲げ、頭を下げる。
「待ちなさい」
凛とした声は人に命じることに慣れた者特有の、有無を言わさぬ力を持っていた。
「――っ」
少女がびくりと肩を震わせて顔を上げると、青年は薄い唇の端を吊り上げて笑った。
「今日は随分とくたびれた。少し気散じの相手になって貰おうか」
「お疲れでしたら、お茶をお持ち致します」
「いい。話相手になってくれと言っているんだ」
「――そんな、私のような者には」
「なに、そう難しいことを言うつもりはない。涙の理由に興味はあるが」
剽げた物言いと共に距離が一歩、二歩、ゆっくりと近づく。
もう互いの息遣いが聞こえる距離だ。
主人と仕える者には、不似合いな距離。
「ああ、やっぱり」
クジャクは手を伸ばし、少女の頬に指先で触れた。
「何故泣いていた?」
問われた少女は射竦められたように動けない。
そこで、かちりと音がして灯かりが点った。
「クジャク様! お帰りでございましたか」
薄闇に慣れた目が眩む。
少女が瞬きを繰り返している間に足早に近づく足音が聞こえた。
「人の声がすると思って参りましたが、まあこのようなところで」
咎めるような声はこちらに向けられている。
この分では明日も何か言われるのだろうと少女は俯いたまま唇を噛んだ。
「御用でしたら私が承りますので、どうぞクジャク様」
メイド長の声に、青年は興醒めた様子を隠そうともせず溜息をついた。
「要らん。私はもう休む。お前たちも下がっていい」
「――、失礼、いたします」
何とか頭を下げて、少女は逃げるように部屋を出た。
不作法も明日の小言が増えるであろうことも分かっている。
けれどこれ以上誰とも顔を合わせたくなかった。


翌朝の申し送りの場で、苦々しい女の声が飛ぶ。
「まったく、たかだか下っ端のメイドの分際でクジャク様にすり寄ろうだなんて油断も隙もあったものじゃない。私が来なかったら何をするつもりだったの?」
「私、そんな――!」
「クジャク様がお優しいからって調子に乗るんじゃないよ」
憎々し気にため息をついてメイド長は少女を一瞥した。
「まったく親の顔が見てみたいものだわ」
彼女が立ち去ったことで、顔を揃えていたメイドたちも各々の仕事へ散って行く。
そうしながらさわさわと聞こえる声が少女の胸をまた刺した。
「あの子、今度はどうしたの?」
「クジャク様と夜に密会ですって」
「密会!?」
「クジャク様は鳥人界の英雄よ。お優しいけれど私たちメイドなんかに現を抜かすはずがないわ」
「お声を掛けられたからって舞い上がってるんでしょ。馬鹿な子」
「早く身の程を知って辞めたらいいのに」


冷たい水で食器を洗いながら少女はそっと溜息をつく。
昨晩のことだけではない。
クジャクは何かにつけて少女に用を言いつけ、暇を見つけては気安く声を掛けた。
初めのきっかけが何だったか、もう少女自身にも思い出せない。
生けた花がお気に召したのだったか、寝具の見立てが良いと褒められたのだったか。
いずれにせよそれは少女に与えられた仕事の一つであって、主人のためを思ってこそいたがそれ以上の他意があったわけではない。
彼が少女を褒めたのだって物慣れぬ新人メイドを労おうとしただけだ。
否、単に物珍しさが彼の興味を引いたのかもしれない。
いずれにせよ、自分の気まぐれがこうしてメイドたちの中に波風を起こしているだなんて彼は思いもよらないだろう。
洗い物を済ませたら銀食器を柔らかな布で磨き上げていく。
地味な作業だけれど、人と顔を合わせないで済むのが今は有難い。
貴族の御屋敷にご奉公が決まったと聞いた時、手放しで喜んでくれた父母のことを思うと涙が滲んだ。
口さが無い噂も直ぐに止むと思っていたが、我慢を続けてもう半年も経つ。
ただ無性に両親に会いたかった。


「暇を取りたいと言ったそうだね」
椅子に腰掛けた青年が首を傾けると、艶やかな黒髪がその肩を滑った。
少女はぎゅっと手を握りしめながら小さく頷く。
「……はい」
メイド長に退職を願い出た翌日、こうして少女はクジャクに呼び出されその私室を訪れていた。
ふむ、と言って青年は長い脚を組み替える。
「駄目だ。辞めることは許さない」
「――っ」
予想だにしなかった言葉に少女が顔を上げると、今日も青年はどこかおかしそうな表情で笑っていた。
「私は君が気に入っているからね」
彼の屈託のない言葉に、張り詰めていた緊張の糸が切れる。
少女はぽろぽろと涙を零した。
「どうして――どうして、いつもそうやって」
堰を切ったように溢れ出した感情は自分でも止めようがなかった。
少女は両の手で顔を覆いながら目の前の青年に怒りをぶつける。
「優しい言葉ばかり……! 私をからかうのが、そんなにっ、楽しいですか……!?」
クジャクがゆっくりと立ち上がった気配がした。

穏やかな声が名前を呼ぶ。
それと同時に逞しい腕に抱き寄せられて少女は息を飲んだ。
「辛い思いをさせたようだ。怖がらせないように、したつもりだったのだが」
温かい体温とほんの微かなヒヤシンスの香り。
それは青年もまた一人の人間なのだと少女に気付かせた。
驚く余り涙も止まった少女の顔を覗き込み、クジャクはいつかそうしたように涙の痕を指先で拭った。
「お前が分かるまで何度でも言おう。私はお前を好いている。だから離してやるつもりはない」
「クジャク……様……?」
「いいだろう?」
青年がいつもの飄々とした笑顔を浮かべると、少女は慌てて首を振った。
「良く、ないです! 私と貴方では――生きる世界が違います……!」
ふむ、と言ってクジャクは長い指に少女の髪を一筋掬い上げた。
それを悪戯に指へと巻き付けながら、存外と頑固だな、と呟く。
「余計なことを吹き込まれたと見える。そんなことがあるものか。言いたい者には言わせておけ」
「でも……」
「お前の素晴らしさは私だけが知っていればいい。鳥も蝶も、派手なのは雄だけだろう?」
青年はそれに、と言いながら唇を吊り上げる。
「私はこの屋敷を出ることにした」
つきん、と小さな針で胸を突かれるような痛みを覚えて少女は主たる青年を見上げた。
「いつ……ですか」
「今日だよ。次の王になることが決まってね。まあ色々と支度やら儀式やら、忙しくなりそうだ」
そうしてクジャクは彼女から手を離して歩き出す。
彼がバルコニーへと続くガラス扉を押し開けると、柔らかな春の風が室内にふうっと舞い込んだ。
「だから一緒においで。私のシンデレラ」
少女が信じられない思いで目を見開くと、目の前に大きな手が差し伸べられた。
「ハッピーエンドの続きをしよう」
恐る恐るその手を取ると、青年は初めて嬉しそうに歯を見せて笑った。


豪奢な中庭に落ちる影は二つ。
真っ白な翼を持つ王子とシンデレラは、城へ向かって青い空を飛んでいく。




戻る