おだいじに。

 ぼうっとした頭で、手乗りサイズの伝書竜が飛んでいく姿を見送った。吹き込む空気に、寒気が募る。急いで窓を閉め、毛布へもぐりこんだ。
 風邪をひいてしまった。今しがた、勤め先の王立図書館へ、欠勤の連絡を送ったところ。ずっと布団の中にだけいたいけれど、一人暮らしでそうもいかない。なんとか朝食のようなものを食べて、薬を飲む。食器を片付けるだけのことでも節々はにぶく痛んだ。嫌気がさして漏れるため息も、かさかさだ。
 横になると間もなく、眠くなってきた。良かった、体調の悪いまま、退屈な時間を過ごさなくて済みそう。図書館から借りている本も、今は頭に入ってこないだろうし。
 そういえば、白龍さんが予約していた本を図書館に受け取りに来る予定だった。もちろん他の職員が対応してくれるはずだけど。
「会いたかったなあ」
 なんて、少し恥ずかしい独り言を声に出せちゃうのは、熱のせいかもしれない。
 恋人の涼やかな横顔が浮かぶ。誰にともなく照れ笑いをして、はそのまま眠った。

 次に目が覚めたのは、昼頃だった。薬を飲むには、何か食べないと。たっぷりと時間を使ってベッドから出した足を、またたっぷりと時間を使ってキッチンの方へ運ぶ。
 食料の棚に手をかけたところで、玄関から来訪者を告げる音がした。普段なら仕事へ行っている時間に、人が来るなんて変だ。こんなに体調が悪い時に、訪問販売の相手をするのは無理。申し訳ないけれど無視しよう。弱った身体で音を立てないように玄関へ向かい、そっと扉の向こうを覗いた。
「!?」

 が勢いよく扉を開けたので、外で立っていた恋人は、やや驚いたように身を少し反らせた。
「白龍さん、なんで」
「ああ……やはり、悪そうだな。連絡をせずに訪ねる無礼、本当にすまない」
 白龍は、普段と違うの声を聞いて辛そうに眉を歪めた。返事をしようとするのを制して、白龍は一人で続ける。
「図書館に行ったら、君が体調を崩して休みだと聞いた。一人暮らしでは何かと大変だろう。差し入れを持ってきた」
 手にした荷物を見せられ、は目をぱちぱちさせるばかり。
「つまり……そうだな。要するに、看病を、しようと思ったのだが。入っても、いいだろうか?」

 はそわそわと落ち着かない。布団に入っているように強く言い含められて、そうしているけれど……。
「これでいいか」
「はっ、はい! ごめんなさい」
 キッチンから湯気の立つ器を運んでくる白龍の姿は、なんだか不思議な光景に思えた。

「すみません、散らかっていて……。それに、こんな格好」
「体調が悪いのに、そんなことを気にする必要はない」
「そ、そうですね」
「薬を飲んだら、また横になったほうがいい」
 空になった器を問答無用で取り上げて、白龍はキッチンへ向かった。それから戻ってきたかと思ったら、あっという間に、薬を飲むのに使ったコップが持ち去られた。それはまさに、“甲斐甲斐しい”という言葉そのもの。このままでは、とんとんと寝かしつけを始めかねない。急いで布団を被ると、戻ってきた白龍は満足そうに頷いた。

 数度続けて咳をすると、ベッドに背を向けて読書していた白龍は風の速さで飲み物を差し出した。ありがとう、と言いながらも、苦笑が漏れる。
「慣れてるんですね」
「弟がまだ幼い、熱を出すこともよくあるからな」
 タツくんと同じ扱い方なら、この手厚さも少し納得。白龍は、まるでかしずくようにベッド脇に膝を落とし、に寄りそっている。
「そこまで心配しなくても大丈夫ですよ、私には」
 赤ちゃんじゃないので、と少しおどけてみたら、白龍さんもそうだな、と頬を緩めた。
「であれば、少々気を付けよう。しかし、少々程度にさせてくれるか。恋人の体調だ」
 そんな急に、真っすぐな目で言われると照れる。辛うじて、無言で頷いた。ちら、と白龍の方を見ると、涼しい色の瞳と目が合う。その奥に熱い炎のようなものを感じて、彼の上体が少しだけ近付いた気がしたけれど、それはすぐに止んで、ふわりと頭を撫でられた。
「……いや、やめよう。さあ、眠らなければ治らないぞ」

 何か話そうとするを白龍がたしなめる、というのを何度か繰り返しているうちに、ようやく寝息が聞こえてきた。白龍は目の端で、それを確認した。わずかにほてった頬に視線を逸らして、
「まだ熱があるようだな」
 と、敢えて声にした。自分に言い聞かせるように。

 いつの間にか眠ってしまったが目覚めた時には、既に陽は落ちているようだった。寝返りの音で、白龍が本から顔を上げる。起きたなら私は帰ろう、と言って彼は立ち上がった。
「食事はキッチンに置いてある。温めて食べられるか」
 そこまで用意されているのかと驚きつつ、さっさと玄関へ向かう白龍へ頷く。
「鍵を閉めて、食事をしたらまた横になるんだぞ」
「わ、わかってます。本当に……ありがとうございます」
「なんでもない」
 彼が準備していった夕食を一人で食べると、一人暮らしの部屋が妙に広く感じた。そんなことを感じる余裕が出てきたのは、回復の兆しかもしれないけれど。


 朝の太陽が、心地よく部屋を暖め始める。窓を開けると、太陽の光と一緒に、爽やかな風ものほほを撫でた。昨日ずっと背中にしがみついていた悪寒は、嘘のように消え去っている。
 うーん、と伸びをして、胸いっぱいに新鮮な空気を入れる。一日しっかり寝ていたおかげで、すっかり元気が戻ったみたい。今日は休日。昨日こもっていた分、ぶり返さない程度に掃除でもしようかな。
 そう考えていたのもとに、来訪者を告げる音。朝食時に誰か来るなんて、変だ。訝しく思いつつそっと扉の向こうを覗いた。
「!?」

 は勢いよく扉を開けたが、外で立っていた恋人は、予期していたように動じなかった。
「白龍さん、なんで」
「声は戻ったな」
 白龍は、普段通りのの声を聞いて、目を細めた。
「心配いらない、しっかり休んでいればすぐ良くなる」
 と言う彼は、昨日持ってきたのより大きな荷物を手にしている。目をぱちくりさせたあと、は困惑したように口を開いた。
「あの……、白龍さん。おかげさまで、もうすっかり、良くなりました」
「なに?」
「軽い風邪でしたから……」
「では、今日は」
「今日は、もともとお休みで」
 ぽかんとしていた白龍だが、彼女の顔色の良さから、それが強がりでないことはすぐ伝わった。
「あれ、そういえば。白龍さん、今日は仕事じゃ」
「や、休みを取った」
「休みを!」
 思わず、驚きの声が出た。
「勝手に今日も看病をと……すまない、心配が過ぎたようだ」
 勘違いと言って良いものか、この行き違いが相当恥ずかしかったのか。ひきつった照れ笑いのようなものが、彼からこぼれる。玄関の前で居たたまれなく立っている白龍の姿に、は胸が熱くなった。
「朝ごはん、一緒に食べましょう。入ってください」
「あ、ああ」
 少しほっとした表情で扉をくぐる白龍に、いつもより少し近く、寄り添う。見上げると、冷たく思われがちな目が温かく見下ろしている。
「なんだか申し訳ないです、お休みさせちゃって」
「それが、休みたいと伝えたらかえって喜ばれた。私の有休がまったく使われていないと」
「なるほど……。じゃあ、今日は白龍さんこそゆっくり休みましょう」
「それは君も同じだ。治ったと思う時が危ないのだぞ」
「はあい」

ネタは2019年末からあったんです、ほんとです……

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